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大阪地方裁判所 昭和56年(ワ)3267号 判決

原告

池浦文一

右訴訟代理人

岩崎英世

菊池逸雄

國弘正樹

被告

大同生命保険相互会社

右代表者

福本栄治

右訴訟代理人

家近正直

林幸二

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実《省略》

理由

一請求原因1ないし3の事実(本件保険契約の成立、敏一の死亡、原告の被告に対する保険金の支払請求)は、いずれも当事者間に争いがない。

二そこで、告知義務違反を理由とする本件保険契約の解除の抗弁について判断する。

1  抗弁1の事実(敏一の外傷性てんかんの発症及び加療)は当事者間に争いがない。

2  告知義務違反について

〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができる。

(一)  本件保険契約の内容となつている約款によると、医師による診査が行なわれない場合において、保険契約者又は被保険者が、保険契約締結の際に被告が告知を求めた事項について故意又は重大な過失により事実を告知せず又は事実でないことを告知したときには、被告は保険契約を解除することができ(約款一六条一、二項)、右告知は、被保険者についての質問事項を記載した書面(告知書)によつて行なう(同六条一項)旨の条項がある。そして、本件告知書によると、告知日から遡つて五年以内にてんかんを含む一定の病気や外傷により七日以上の治療等を受けたことの有無を告知することが求められていた。

(二)  原告は、敏一の同居の実父であつて、本件告知書作成当時、前記1認定の敏一の外傷性てんかんの発症及びその入院又は通院加療の事実を知悉していた。

(三)  被告の保険外務員である月田は、昭和五四年三月九日、原告方を訪ね、原告に対し、同人自身を被保険者とする生命保険契約のほか、敏一を被保険者とする無診査の本件保険契約にも加入するよう勧誘したところ、原告はこれに応じて、その申込みをした。そこで、月田は、被保険者である敏一に告知を求めようとしたが、原告から同人は不在である旨告げられたので、これに代わつて保険契約者である原告に対して本件告知書を示し、個々の質問事項の内容について逐一説明することはしなかつたものの、告知書の趣旨の概略を説明したうえ、補足的に敏一について病気又は入通院の事実の有無を尋ねた。これに対し、原告は、本件告知書を五、六分ないし一〇分程度見ていたが、前記1認定の外傷性てんかんによる通院加療の事実はもとより、敏一について何らの事実も告げなかつた。その後原告は、月田の求めに応じて本件告知書の被保険者の自署欄に敏一名義の署名、押印をしたほか、生年月日欄に敏一の生年月日を、告知日欄に昭和五四年三月九日の日付をそれぞれ記入したうえ、これを月田に交付した。そして、月田は、原告から敏一について何らの病気等の申告もなかつたので、本件告知書の各質問事項の回答欄の「無」に丸印を付したほか、職業その他の記載をしたうえ、これを持ち帰つて被告に提出した。なお、本件告知書作成に際し、原告が敏一から告知の代理又は代行を委ねられた事実はない。

(四)  被告は、昭和五四年四月中旬ころ、月田を原告方へ派遣し、原告に対し、本件保険契約の保険証券(甲第一号証)とともに、本件告知書の写しに告知内容を確認のうえ事実と相違があつたときは同封の葉書でその旨申し出るよう付記された「お客さまへ」と題する書面を交付して、本件告知書の内容の再確認を求めたが、原告はその記載内容について何ら事実に相違する旨の回答をしていない。

以上の事実を認めることができ、原告本人の供述中右認定に反する部分は、前掲各証拠に照らして採用することができず、他に右認定を覆するに足りる証拠はない。

右認定の事実を総合すると、原告は、昭和五四年三月九日、月田から本件告知書を示され、その質問事項について判断したうえ敏一名義の署名、押印等をしたものといえるところ、これについて原告が敏一から告知の代理又は代行を委ねられた事実もないのであるから、本件告知書(乙第七号証)は、その名義が敏一になつていたとしても実質的には原告作成のものというべきであり、原告は、保険契約者として告知をしたものといわなければならない(月田が質問事項に対する回答欄の「無」のところに丸印を付したのは、原告の回答に基づいてその記入を代行したものにほかならない。)。そして、本件保険契約(約款及び告知書)によると、前記1認定の敏一の外傷性てんかんの発症及び加療の事実のうち、告知日から過去五年以内である昭和四九年三月九日以降のもの(七日以上の治療がされていることは明らかである。)については告知の対象となつていたというべきところ、原告は、右外傷性てんかんの事実を知悉し、かつ、告知書の記載により(仮に告知書の記載を明確に理解していなかつたとしても、これを補う月田の質問により)右事実を告知すべきであることを認識していたにもかかわらず、これを黙秘し、その告知をしなかつたものであるから、原告は、本件保険契約上の告知義務に違反したものといわなければならない。なお、〈証拠〉によると、てんかん(真性てんかん、外傷性てんかん)患者は、てんかんの発作で急性心不全を起すことも稀ではあるが、あり得ないところではないうえ、痙攣発作の際の外傷、墜落あるいは痙攣重積状態による心臓衰弱が原因で死亡する危険性があるほか、全体として生活力が弱いため早死することもあるとされていることを認めることができるのであるから、生命保険契約において、被保険者がてんかんに罹患しているかどうかは、被保険者の死亡その他の保険事故の発生率に関する予測に基づく契約締結の諾否の判断に影響を及ぼすものであることは明らかであつて、被告が、本件保険契約においてこれを告知の対象としていたことは、商法六七八条一項の趣旨に照らしても十分合理性を有するものというべきである。

3  解除の意思表示について

〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができる。

(一) 敏一死亡後、被告は原告から保険金支払の請求を受けたが、後記五の認定のとおり、その後の調査により原告の告知義務違反の事実を掴むに至つたため、昭和五五年二月一日ころ、本件保険契約の取扱支社である天王寺支社長に対し、本件保険契約は告知義務違反を理由として解除することに決定したことを通知するとともに、右解除通知発送までに原告との間で、既収保険料を返還するのみで保険金は支払わないこととするとの内容で示談交渉をするよう指示した。

(二)  これを受けた当時の被告天王寺支社長柏木典夫(以下「柏木」という。)は、同月五日ころ、機関長の岡谷某及び月田を同道して原告方を訪ね、同人に対し、本件保険契約は告知義務違反により解除されることとなつた旨説明し、被告本社から指示された示談の話をしようとしたが、原告がその話すら聞こうとしなかつたため、結局何ら具体的な話をすることもなく示談不成立となつた。

(三)  そこで、被告は、原告に対し、同月一五日受付の内容証明郵便(速達便)により、原告の告知義務違反を理由に本件保険契約を解除する旨の意思表示をし、同書面は遅くとも翌一六日中には原告に配達されたが、原告はその受領を拒絶した。

以上の事実を認めることができ、右認定を覆するに足りる証拠はない。

右認定の事実によると、被告の原告に対する本件保険契約解除の意思表示は遅くとも昭和五五年二月一六日中には原告の了知可能な状態におかれたものと認めることができるから、そのころ原告に到達したものということができる。

三進んで、被告が敏一の外傷性てんかんの発症及び加療の事実を知らなかつたことについて過失があつたかどうか(再抗弁1)について判断する。

〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができる。

1 本件告知書作成の経緯は前記(二2(三))認定のとおりであるが、その際、月田が原告の本件告知書の記載内容(質問事項)の確認を妨げたり、原告の関与なしに勝手に告知書を作成した事実はないし、また、右記載内容についての再確認及びこれに対する原告の態度についても前記(二2(四))認定のとおりである。

2  被告は、保険契約者である原告の告知のみで、被保険者である敏一の告知を受けていないし、同人の健康診断をしていないけれども(健康診断をしていないことは当事者間に争いがない。)、月田が原告を訪ねた時はいつも原告から敏一が不在である旨告げられて同人に会うことができなかつたうえ、約款上、告知義務者は保険契約者又は被保険者のいずれかであり、被告内部の取扱基準としても、被保険者に告知を求めるのを原則としながら、保険契約者が被保険者と同居の親族であるような場合には、両者の関係からみて正確な告知を十分期待できるものとして、保険契約者から告知を求めても差支えないものとされていた。また、本件保険契約締結当時の被告の契約選択基準によると、被告は、本件保険契約のように契約時の被保険者の満年齢が六歳から三五歳までで(契約成立日である昭和五四年四月一日当時敏一は満三一歳であつた。)、かつ死亡保険金額が一〇〇〇万円以下のものについては、医師の診査を経ることなく告知のみによる契約形態(簡易契約)を選択できるものとされていたところ、このような制度は、元来戦時中の医師不足に対処するために発足したものがその後有診査と無診査とで被保険者の死亡率に殆んど差がないことが確認された結果定着したものであつて、別段合理性を欠く取扱であるということはできない。

3  月田は、本件保険契約に際し、本件告知書に作成名義にもかかわらず実際には原告が告知者であることを被告に報告していないが、被告の取扱としては、告知者である保険契約者が本件のように被保険者の同居の実父であるような場合(この点は被告にも明らかであつた。)には、改めて被保険者に告知を求めたり、その健康状態を調査したりすることはしていない。

以上の事実を認めることができ、原告本人の供述中右認定に反する部分は、前掲の各証拠に照らして採用することができず、その他これを覆すに足りる証拠はない。

右認定の事実を総合すると、原告は、告知書によつて告知を求められたにもかかわらず敏一のてんかんの事実を殊更黙秘したものといわざるを得ないのであつて、保険契約当事者間の衡平の見地から見て、被告が本件保険契約締結の際敏一の外傷性てんかんの発症及び加療の事実を知らなかつたことにつき取引上必要な注意を欠いた過失があつたものと認めることはできない(なお、月田が本件告知書の作成者が原告であつたことを被告に報告しなかつたことと被告の外傷性てんかんの不知との間には因果関係がない。)。したがつて、再抗弁1は失当である。

四次に、外傷性てんかんと敏一の死亡との間の因果関係の存否(再抗弁2)について判断する。

敏一の直接死因である急性心不全(心不全そのものは独立の症病ではなく、何らかの原因で心臓が停止する一つの状態を指すものにすぎない。)が外傷性てんかんに基づかない、全く別個の原因によつて生じたことを認めるべき証拠はなく、かえつて、〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができる。

1  敏一は、昭和三九年八月一日の登山中の転落事故により脳に損傷(脳挫傷)を受けたが、その程度は、同人がその後右眼の視力(これは視束管骨折によるものである。)、嗅覚及び聴力を失つていることからも窺えるように、前頭葉から上部のみにとどまらず、脳の底部にまで及ぶものであつて、外傷性てんかんの原因となる脳の損傷としては相当重大な部類に属するものであつた。

2  てんかん発作の態様は、当初は全身痙攣に意識消失を伴ういわゆる大発作が主たるものであるが、外傷性てんかんの場合、根治療法がなく、その原因となつた脳の損傷の部位、程度により進行性のものもあり、その約三分の一程度は約五、六年のうちに意識発作(意識消失又は軽い意識混濁状態下で興奮状態に陥るもの)に進行して精神障害をきたすようになる。そして、敏一の場合も、昭和四五年六月二一日に大発作を起こして以来、抗痙攣剤の定期的な服用により大発作はある程度抑えられていたが、その後その服用が不規則となり、同五〇年中には九回、同五一年(同年一〇月一日)、同五二年(同年一月一四日)及び同五三年には、当時同人が通院治療中の北野病院に判明したものだけでも各一回(同五三年ころは週二回程度大発作を起こしていたが、敏一は、医師に申告していなかつた。)の大発作を起こし、同五四年には、藍野病院に入院するため北野病院での通院治療を打ち切つた同年四月二六日までの間だけでも八回の大発作を起こした。その間、敏一は、同五三年三月ころから、家族が注意したりすると茶碗を投げつけたり、ガラスを割つたりする等の行動異常を呈するようになつたため、同年五月一八日から同年八月九日まで金岡中央病院に入院させられた。

3  同五四年に入ると、敏一のてんかん症状は右認定の大発作から精神症状に進行し、抗痙攣剤の服用も不規則で、家族の注意を聞くどころかかえつて暴力を振るうようになり、家庭内看護は到底困難な状況になつたため、原告は、同年四月二八日北野病院の紹介により敏一を藍野病院(精神科)に入院させた。敏一は、右入院前から既に軽い意識障害(一種の錯乱状態)に陥つており、これが入院後の同年五月二〇日ころまで継続し、その後四日間位の意識清明状態を経て、同年六月二〇日ころから同年八月三日ころまで及び同年九月一九日から同月二九日ころまでにもそれぞれ意識障害に陥るというように、中間に間歓的な意識清明状態を挾みながら意識発作(意識障害)を繰り返した。そして、敏一の意識障害(意識消失)は、藍野病院における死亡までの全入院期間の三分の一ないし三分の二に及び、その症状は徐々に進行していつた。

4  敏一は、意識障害が起きている間は生活が不規則となり、夜も睡眠をとることなく起きている反面、昼間も半ば眠つたような一種の朦朧状態となり、食事も自ら摂取することができず、鼻から流動物を流し込むか、それも不可能なときには栄養剤の点滴をしながら意識の回復を待つ以外に方法がない状態であつた。その結果、敏一の栄養状態は極めて不完全なものとなつて、次第に栄養障害を起こし、同年一〇月中旬ないし下旬ころにはいわゆる低蛋白状態(体内の総蛋白が減少した状態)を呈し、足の甲その他に浮腫がみられるようになつた。

5  栄養障害による敏一の低蛋白状態は敏一死亡に至るまで進行を続け、その結果肝臓等に脂肪変性(脂肪肝)を起こすとともに、心臓もその筋肉に必要な蛋白の欠乏により衰弱していくなど、全身状態に種々の障害を惹き起こした。そして、敏一は、昭和五四年八月八日及び同年九月二五日にそれぞれ極めて危険な状態に陥つては何とか持ち直したものの、栄養障害による心筋の衰弱が一因となつて同年一一月二九日午後七時二〇分ころ急性心不全を惹き起こして死亡した(死亡後の解剖所見にみられる肺水腫は急性心不全によつて生じたものであつて、これが急性心不全の原因になつたのではない。)。

以上の事実を認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

右認定の事実によると、敏一は、外傷性てんかんの進行による全身状態の悪化等により心不全を起こして死亡したものであるから、外傷性てんかんと敏一の死亡との間に因果関係があることは明らかであり、再抗弁2も失当というべきである。

五最後に除斥期間の経過(再抗弁3)について判断する。

〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができる。

1  敏一死亡後、原告は、昭和五四年一二月二四日被告天王寺支社に対し、敏一の死体検案書を添付して保険金の支払を請求し、右死体検案書は翌二五日被告本社に到達したが、これには敏一死亡の約一一年前の外傷性てんかんが直接死因である急性心不全の推定原因として記載されていた(以上の点は当事者間に争いがない。)ほか、外因死の追加事項欄に、登山中転落し頭部を打撲、開頭手術後てんかんが発症、同五四年四月から入院中急死した旨の記載もされていた。

2  被告は、死体検案書の右の記載内容により、敏一について告知義務違反があつたのではないかとの疑を抱いたが、右の記載内容そのものは、いずれも本件保険契約における告知義務の対象となつていない告知日(昭和五四年三月九日)から五年以上前のものであるか、告知日以後のものであつたため、そのころ、この点についての調査を専門の調査機関に委託した。

3 被告の委託に基づいて、右調査機関の調査員は、原告を訪ねて事情を聴取するとともに、本件告知日以前に敏一が通院又は入院していた病院に対し、同人の診療状況を照会し、金岡中央病院からは昭和五五年一月一八日作成の、北野病院からは同月一九日作成の各診療証明書(前者には、敏一がてんかんにより同五三年五月一八日から同年八月九日まで入院治療した旨の、後者には、同四五年六月二一日に外傷性てんかんが発症、以来同五四年四月二六日まで一か月一回程度通院治療した旨の各記載がある。)の交付を受け、これを調査報告書に添付して被告に提出した。被告は、右調査報告書及び診療証明書の記載により、敏一について本件保険契約上の告知義務違反があつたことを確認したので、本件保険契約を解除することを決定し、前記二3(一)、(三)認定のとおり、天王寺支社長に対し、その旨及び示談交渉を指示した後、同年二月一五日ころ原告に対し解除の意思表示をした。

以上の事実を認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

約款一七条二号及び商法六七八条二項、六四四条二項前段の「解除の原因を知りたるとき」とは、保険者が解除権行使のために必要と認められる諸要件を確認したときを意味し、保険者が単に疑を抱いただけでは足りないと解すべきところ、被告が敏一の死体検案書を受け取つた段階においては、その記載内容が敏一についての告知義務違反を直接示すものではなかつたことに照らすと、被告としてはいまだ右告知義務違反の疑を抱いたにとどまり、これを確認したものとはいえず、被告がこれを確認したのは、早くても前記調査機関から調査報告書及び診療証明書を受け取つた日である昭和五五年一月一九日ころ以降(二つの診療証明書は一括して被告に提出されたものと認められるから、最も早いときでも北野病院の診療証明書作成日である右同日以降)であると認めるのが相当である。そして、被告から原告に対する本件保険契約解除の意思表示が同年二月一六日中に原告に到達したことは前記二3の認定のとおりであるから、右解除の意思表示は一か月の除斥期間経過前にされたものというべきである。したがつて、再抗弁3も採用することができない。〈以下、省略〉

(島田禮介 牧弘二 戸倉三郎)

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